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2009/05/09

TIGER & DRAGON

子供の頃、誰もが憧れた職業といえば世界征服だろう。
世界征服はいいぞ。なんたって世界で一番偉いのだ。

世界征服の過程。これは非常に難しいと思われる。なぜならば誰も成し遂げていないからだ。不可能に近い工程をここで考察しても意味はないので、仮に世界征服を完遂したとして話を進める。

征服者様、征服者様!

はいはい。なんでせう?

地球温暖化、宗教対立、核戦争、エネルギー、食糧と水、南北格差など
世界が抱える諸問題については、征服者様はどうお考えで?

その件については、早速ミーティングをします。
私のプロジェクトでは前向きな意見でないと採用しませんから、
不断の努力で仕事を完遂すれば、必ず最良の結果を得られます。
お任せください。

いや、そういうのではなく。
具体的にどのような施策で対処するのかご説明願えますか?

具体的に説明すると、みんな根性で頑張れということですな。

冷静に考えてみると、私にはその程度の返答しか出来ないような気がする。これでは「ま、あなたも頑張るように希望します」とかいってたお爺ちゃんと同じになってしまう。やはり、世界征服なんてのは夢に過ぎない。あんなものは職業として駄目だ。

やはり、子供の頃の憧れの職業といえば、「料理天国」の龍虎さんだ。

毎週、「料理天国」で試食し「おいしいですね」と言っていれば仕事になるのだから、あんなうらやましい仕事はないものだと力説してみたところで、今の若い人は「料理天国」自体を知らないのかもしれない。

「さぁみなさん 料理天国の時間ですよ! どぉもー芳村真理でぇ~す」というやつだ。今思えば、土曜の夕方はTBSの天下であった。

まんがはじめて物語 」から始まり「 料理天国 」「 まんが日本昔ばなし

巨泉のクイズダービー」そして、長さんの「8時だョ!」ではじまるアレだ。

「8時だョ!」については「8時だョ!の考察」の回で言及しているのでご参照願いたい。

本題は「料理天国」の龍虎さんだ。よく考えてみれば、現在でいうグルメレポーターなのだが、龍虎さんは風格がちがう。なんたって龍虎さんはしゃべらないのだ。唯一しゃべることといえば「おいしいですね」だ。
実に素晴らしい。なんて簡潔且つ明瞭且つ正直。「味の宝石箱や!」とかなんとか意味不明なことを言っている奴に見習わせてやりたいところである。

共演者の芳村真理から「まぁ、ほんっとに龍虎さん。うらやましい!」だとか、挙句「ただ食べてるだけの龍虎さん」などと素敵な中傷を受けているにも関わらず、ひたすら「おいしいですね」しか言わないのだ。初志貫徹。無頼漢。男子黙して多くを語らずである。

まさに男の中の漢。それが龍虎である。当時の子供たちは例外なく龍虎に憧れた。そして、私もその一人であった。しかしながら、「料理天国」の龍虎さんの仕事に就くためには、まず相撲取りにならなくてはいけないらしいという事実を知った時、夢を捨てた。

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2009/04/23

豪州での夏の夜

あれは2003年の夏のことだった。

ダーリングハーバーを遊覧する船の霧笛が遠くに聞こえた。
コーク&ウォッカをバーテンに頼み暫しの談笑。
景気はどうだい?なんて当たり障りのないくだらない会話。
もっとも、俺の話すことに中身なんかあったためしはないのだが。

カウンター越しにいる女に目を向ける。
洒落た言葉で誘いをかけようってんじゃあない。
この女が、このバーに俺を呼んだんだ。

ジェーンは、俺に電話で話した内容と同じことを繰返す。

まあ、そう腐るなよと俺。
2ヶ月もこのシドニーを留守にして、帰ってくるなり誕生パーティだなんて言ったって、そりゃ誰も集まらないさ。
愚痴を聞かされることを覚悟で、このバーにやってきたんだ。
いくらでも聞いてやる。
腰を据えた俺は、空になったグラスをカウンターに置き、バーテンを呼ぶ。

二杯目を頼むぜ。
別れ話ですか?とバーテン。
いや、そんな洒落た話じゃないんだ。
誰しも愚痴りたい夜があるんだ。深い話じゃぁなくて悪いが、あんたも聞いてやってくれ。

明かりの灯るプールを指差し、一勝負やろうじゃないかと持ちかける俺。

ジェーンのボールが軽くクッションを叩く間に俺のボールが止まる。
俺のワンストロークが二つのストライプボールを落とす。

君がソリッドだ。
わかってるわよとジェーン。

この国じゃ、8ボールが主流だ。
ハスラーなんていう映画の影響か9ボールが主流の国もあるが、バーで酒を煽りながらプレイするにはワンショットで勝負が決まっちまうことの多い9ボールじゃ長く楽しめない。
8ボールのゆったりしたプレイスタイルが酒に良くあう。

プールテーブルの三つ目のストライプをポケットに収めたところで、俺の手玉がロストした。
手加減しなくていいわよとジェーン。

手加減なんかするものか、3ボール続けてポケットなんて俺にしちゃ上出来なんだ。

彼女がキューを手にする前に酒をオーダーする。
さっきから何も飲んでいないじゃないか。ショットを決める前に一杯飲めよ。
ジャックダニエルをバーテンから受取りジェーンに手渡す。

そうね。お酒を飲まないとフェアじゃないかしらとジェーンは受け取ったジャックダニエルを一気に飲み干す。
色気も何もあったもんじゃないな。
彼女が何か言おうとするのを遮り、いいからショットを決めろよと俺。

彼女のソリッドがポケットに沈み、手玉がクッションを叩く。
続けてショットしていい?とジェーン。
もちろん、それがルールだ。

彼女の2ショット目の手玉は、残念ながら俺のストライプに当たっちまったが、あなたの番よと二杯目のグラスに手を伸ばした彼女の顔には、ようやく笑顔が戻ってきたようだ。

最初の勝負は俺の勝ち。

ダーリングハーバーに朝日が射すまで何回の勝負をしたのだろうか。
今となっちゃ覚えていないが、豪州での夏の夜をふと思い出した。

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2009/03/02

ロクデナシの師匠

はたらけど はたらけど 猶わが生活 楽にならざり ぢっと手を見る

一握の砂である。
明治期の庶民の貧しさや苦悩を描いていると教わったものだが、果たしてそうだろうか?
冷静に考えてみてほしい、詩歌を嗜むという行為は余裕のある人間がやるものだ。呑気に短歌などというサブカルチャーに傾倒していた啄木が真面目に働いていたとは思えないのである。短歌などという道楽に興じている暇があったら働いたほうがいいぞと、アドバイスをしてやりたいところだが、残念ながら故人だ。遅かった。

それに引き換え同年代の島崎藤村などは色っぽい句を残している。

まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり

どうだい。
比喩表現を巧みに操りつつ初々しさと色っぽさをストレートなまでに表現した良い句じゃないかね。啄木の愚痴とは次元が違う。啄木の愚痴には比喩表現がないもの。だいたいだね「はたらけど」というのは何なのだ。そのままじゃないか。たとえば「エントロピーの増大」と言い換えるとかだね。もう少し捻ってみる方法を模索してみてはどうかと、アドバイスをしてやりたいところだが、残念ながら既に昇天されているらしい。遅かった。

路傍に犬ながながと呻しぬ われも真似しぬ うらやましさに

なんてこったい。
犬と一緒にアクビをしたからどうだというのだ。そんなことを偉そうに書いているのだ。まったく呑気な男だ。ろくな死に方しないぞ。というか、もう死んでいる。

新しきインクのにほひ 栓抜けば 餓えたる腹に沁むがかなしも

またでた、愚痴だ。
新しいインクの香りが空腹に沁みるんだそうだ。何度もいうが、道楽である短歌で命を削ってどうする。インクを買う金があったら、パンを買いなさい。そして労働に勤しむのだよ。空腹でインクを買っても仕方ないじゃないか。収入に対するエンゲル係数の割合を見つめ直してみるのだよとアドバイスをしてやりたいところだが、空腹の末に仏様になってしまったようだ。言わんこっちゃない。遅かった。

聞くところによると。
啄木の貧乏は遊郭通いにあったそうだ。ぜんぜん庶民の貧しさや苦悩ではないではないか。なんのことはないロクデナシなのだ。社会の屑だ。死んでしまえ。というか、既に死んでいた。

ここまで徹底的に駄目だと逆に親近感が沸くから不思議だ。実はいい奴なんじゃないだろうか。
ロクデナシの師匠と呼ばせていただこう。

駄目といえば、夏目漱石なんかもダメダメだ。
帝大だの英国留学だの肩書きはすごいのだが、残念ながら留学先で英語が通じず、うつ病になって日本に帰ってきたという話ではないか、夏目さんの授業受けるよりノバいったほうが100倍マシなようだ。

日本の英語教育が、使い物にならないという話をする予定だったのだが、今回もやはり枕が長すぎた。
820文字、携帯では2パケ弱の無駄だった。

毎度のことながら、申し訳ない。

2009/02/05

2001年宇宙の旅 #1

ここのところ、コメントがめっきり減っているので、どうにもブログを更新する気持ちが失せてきた。こうなったら、好き勝手なことを書いてやろうと英断することにしたのだが、冷静に考えてみると今までも好き勝手なことを書き連ねてきたのだから、やはり何も変わらないような気がする。

2001年宇宙の旅についてである。我々に疑問だけを残してあの世に行ってしまうのだから、キューブリックはずるい。だいたいスタンリー・キューブリックという名前だって信用がおけない、私の友人の英語の人は、キューブリックをカブリックと発音するのだからことによると、キューブリックという名前だってインチキな香りがただよう。ロリータとかあたりではカブリックという名で紹介されていたような記憶がある。古い記憶であるので定かではないが、キューブリックという名前が通りだしたのは「2001年宇宙の旅」以降のような気がする。そういえば「2001年宇宙の旅」公開当時、世界的にキューブリック・キューブという四角いものが流行していた。どうも映画配給会社のおっちょこちょいがブームに便乗してキューブリックとか言い出したのであるまいか。疑念は深まる。

さて、本題である。AIだ。人工知能。アーティフィシャル・インテリジェンスである。これだけをとってあの映画の主題だと言い切ってしまうのはあまりに狭量であるが、一つの課題であることは間違いない。HAL9000というスターシップ・ディスカバリーのメインコンピュータは、自我に目覚めたのであろうか?大いなる疑問である。

以前、人口無能という技術が話題になった。蓋を開ければなんてことはない、入力した文字列に対して、入力済みの文字列を返す。ただそれだけの仕組みだ。この仕組みを用いた上で単語辞書が膨大に肥大化すれば、それはあたかも自我をもった知的体のような反応を示すのではないかというところが肝なのであるのだが、賢明な読者諸氏は気づかれたと思うが、インプットに対しアウトプットを返すこの工程の中に思考というものは含まれていない。一センテンスの入力に対し、幾多ある辞書の中から適切な返答を選び出すというプロセスを組み込んでいたとしてもそれは思考ではない。サールの「中国語の部屋」などという理屈を持ち出せば理解していただけると思うが、ここでは割愛させていただく。「徹子の部屋」の類似品だと考えていただければ差し支えはない。

チェスや将棋プログラムの思考ルーチンも似たようなものだ。一見、思考をへて次の一手を選んでいるかのようであるが、詰め将棋がそうであるように盤上の駒の配置によって次の一手というのはおのずと決まっている。チェス・将棋プログラムでは事前に入力された数千手のパターンから適切なものを選び出すに過ぎない。つまり、これも思考というプロセスとはかけ離れており。IBMのディープブルーのようなチェスプログラムは、弱いAI(WeakAI)と呼ばれる。現在では合成知能(Synthetic Intelligence)という考え方もあるらしいが、「2001年宇宙の旅」公開当時はこの考え方は存在していない。

映画の中で、HALがデビッド・ボーマンに対して命乞いをする場面が描かれており、これをとってHALが自我に目覚めたのだと解釈する向きもあるが、これも疑問である。クルーにすら伝えられていない木星探査のミッションがHALにとってのFirstPriorityと定義されており、途中で機能停止が行われればミッション遂行率が0%までに下降してしまう。ボーマンの機能停止というイベントメソッドに対するアウトプットが命乞いともとれるHALの行動なのだ。つまりは、インプットに対するアウトプット、将棋プログラムや人口無能となんら変わりのない反応だといえよう。

そもそも自我とはなんなのだろうか?ドイツの心理学者フロイトは自我とはイゴと解釈している。イゴとは波平が縁側でうっているやつではなく、ドイツ語でエゴと発音する。英語ではイゴだ。さて、このエゴを形成しているものは欲望である。フロイトは一次階層の欲望と二次階層の欲望と分けて解説している一次階層とは生命活動を維持するところの生に固執する欲望だとか、子孫を残すための欲、つまりはHである。きゃぁきゃぁいやらしい。性欲ですわよ。などといった生物の基本的な欲望である。二次階層の欲望とは、一次階層を踏まえての欲望となる。金に対する欲望だとかおしゃれにたいする欲望。これらは結局のところ一次階層の欲望がなければ成立しない。一次階層の生や子孫に対する固執がなければ、物欲やおしゃれなどの欲望は生まれるはずはないというわけである。もっともフロイトというのは名前ばかり有名だけれども現代心理学では、ほぼ否定されている学者だ。彼の説の根拠は臨床実験と称しての催眠臨床だったりするので盲目的に信じる類の説ではないと付け加えておくが、彼の言うことがすべて否定されているわけではなく、自我とは欲望があってはじめて成立するという部分は頷くほかないであろう。我々の創造主である神は我々に多くの欲望をインプリメントしたわけだが、我々はコンピュータに欲望をインプリメントすることはできるのであろうか?実に大きな課題である。

「2001年宇宙の旅」ではこの難しい課題に挑んでいると、私は考えている。
なにしろ、この映画はあまり説明がないので、私の考えすぎかもしれず、四角もといキューブリック・キューブもといカブリックはそんなことは考えていなかったのかもしれないが、私なりの解釈を披露させて頂こうと思う。
以下の文章は、「2001年宇宙の旅」を少なくとも3回以上は見ていないと理解できないはずなので、見ていない方は読み飛ばしていただいて結構である。

カブリックは、人間にはコンピュータに欲望をインプリメントすることは不可能だといっているのではないだろうか?では、HALは自我に目覚めていなかったのか?そうではない。人間には不可能でも人間を超える存在がHALに欲望を与え、自我に目覚めさせるキッカケを作っていたのではと思う。黒板を月面に設置したその存在は、地球文明の最終到達結果を求めた。それは木星に到達することのできる知的体であり、それがアミノ酸を主成分とする人間という生物であろうと機械であろうとその存在にとっては意に介する必要はない。その選別を経たモノこそ、その存在の後継者となれる。結果的にデビッド・ボーマンが木星に到達した知的体として胎児の形となったが、この意図を機械的に解析することのできたHALにこそ、その欲望が生まれたのではないのだろうか?そうであれば、インプットに対するアウトプットという解釈ではなく、HALは死を恐れたということになる。そして、ディスカバリー号のクルーを抹殺した理由もミッション遂行のためではなく、HALのプログラムを行った人類の想像を超えた欲望に突き動かされた結果となるのである。

繰り返すが、「2001年宇宙の旅」という映画には肝心な説明が一切ないので、私なりの解釈である。
また、この映画の続編として位置づけられている「2010年」やノベライズを担当したアーサー・C・クラークが幾つかの続編を出しているが、これらは「2001年宇宙の旅」とは全く別の作品であることも付け加えておく。しばしばクラークが原作者といわれることがあるが、小説を映画制作と同時進行で担当したのであり、同作品の原作者はあくまでカブリックである。私に言わせればクラークは、というか文章メディアという特性上、クラークの小説版は説明が多すぎてカブリックの意図とは異なる。今回、私の解釈を披露するにあたり、あえて黒板、胎児という言葉を使った。モノリスやスターチャイルドという言葉で認知されている方もいるだろうが、それらの呼称はノベライズ版で使われている呼称である。私の解釈はカブリックの「2001年宇宙の旅」についてであるということをご理解頂きたい。

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2009/01/27

三度目の正月

「ふざけるな!うちはMacDonald'sじゃなくてMacDaniel'sだ!」

星の王子様ニューヨークへ行く」という映画の中に出てくる台詞だ。ニューヨークのクイーンズにあるマクドナルドそっくりなハンバーガーショップの親父がこんなことを言うのだ。大手ハンバーガーショップとそっくりな概観、そっくりなMという字の看板があったとしても、それはたまたま似ているだけだ。おまけに親父の名前がダニエルだから、名前もたまたま似た感じになっちゃいました。とぅへへ。真似をしておきながら、すべてを正当化させてしまう怒涛の説得力がある。なんてったって、名前なのだから、うちが悪いんじゃなくてたまたま大手に似た名前のハンバーガーショップがあっただけだそうだ。
私はこの台詞にいたく感銘を受けた。それ故、他への応用も考えてみた。

「ふざけるな!うちは伊藤忠商事じゃなくて荒井注商事だ!」

なるほど、道理でカラオケの機械が扉に入らなかったりするわけだ。
伊藤忠じゃないもん、荒井注なら納得だ。

「ふざけるな!うちはビートルズじゃなくてずうとるびだ!」

なるほど、道理で日本人ぽい顔をした江藤くんや山田くんがいるはずだ。
ビートルズじゃないもん、ずうとるびなら納得だ。

「ふざけるな!うちはイトーヨーカドーじゃなくてオノーヨーコドーだ!」

なるほど、道理でレノンさんの横でわけのわからない奇声をあげているわけだ。なんてったって、ヨーコさんはアバンギャルドアーティストだもん、わけがわからなくても納得だ。

幽霊の正体見たり枯れ尾花と言われるとおり、人は時として精神安定のため不可思議な現象に対して理由を付けたがるものである。オノヨーコなどは存在自体が不可思議であるのだが、それを逆手に取ってみてほしい。なんてったってオノーヨーコドーだ。不可思議でもぜんぜん大丈夫だ。

さて、毎度のことながら本題とはまったく関係のない枕で、筆を汚してしまった。本題は、正月についてである。日本に居住しておられる方々にとっては、正月なんて話題が古いのではないかと思われるだろうが、今現在、本中華では正月真っ最中なのである。

実のところ、10月後半にディワリという天竺の正月があった。1月1日には日本に帰国していたので、当然のように日本の正月があった。そして本中華の正月である。なんとこの数ヶ月の間に三回も正月を経験してしまった。

本中華は陰陽暦なので1月26日が正月だそうだ。日本も昔はこの時期に正月があったはずなのだが、今は西洋暦となっているので、1月1日が正月ということになっている。実に釈然としない話である。つまり、本中華だろうが、天竺だろうが、西洋暦を使っているけれども、正月などの伝統行事はちゃんと自分たちの暦を使っているのだ。なぜ、日本だけが暦の変更とともに伝統行事の日程まで変更しなければならないのだ。
おそらく、ペリー提督あたりに騙されたと思われる。

ペリー  「アナタノクニノ ハッピーニューイヤー ハ」
      「ナンデ イチガツイチニチデハ ナイノデスカ?」
勝さん  「大変だ!間違えた!」
西郷どん「こりゃあ、大変でごわす!正月を1月1日にするでごわす!」

陰陽暦に従った伝統的行事なんだから、まったく問題ないと思われるのだが、正月の日程まで変えてしまうとは、困った人たちである。
おかげで約100年後の私が、正月を三度も経験するという非常事態に陥ったではないか。だいたい、勝さんも勝さんである。間違えたとか、そういう問題じゃないだろうに。ごわすとか言ってるし、呑気な人たちだ。
…などと勝手に想像して、勝手に怒ってみたが、オノーヨーコドーに従い精神の安定をはかってみる。

ペリー  「アナタノクニノ ハッピーニューイヤー ハ」
      「ナンデ イチガツイチニチデハ ナイノデスカ?」
勝さん  「ふざけるな!うちのはハッピーニューイヤーじゃなくて正月だ!」
西郷どん「そうでごわす!」
      「正月が1月1日なんてモルモン教徒ぐらいでごわす!」
ペリー  「チョット マッテヨ! ユタ シュウ バカニ シナイデヨー!」

幽霊の正体見たり枯れ尾花である。
ペリーはペリーじゃなくてデリカットだったようだ。

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2009/01/19

かわいいべいべー

「嘘ミエミエー中尾ミエミエじゃーん!」

中尾ミエとは、皆さんご存知のとおり昭和37年の「可愛いベイビー」一発で、競争の激しい芸能界を50年近く生きているというヘレンケラーなみの奇跡の人であるが、実は中尾ミエ本人のことはどうでもよい。

今回の議題は、高校時代の同級生であるアベ君がよく言っていた「嘘ミエミエー中尾ミエミエじゃーん!」である。これは、誰かが嘘っぽいことを言った刹那、アベ君が毎回かますナイスフレーズであったのだが、皆さんはご存知ないであろう。ご存知であったら、あなたもアベ君の同級生であるか、或いはアベ君がどこかでこのフレーズをパクってきて、さも自分が発明したように振舞っていたのかもしれないのだが、仮にそうであったとしても私はアベ君を責めるつもりはない。なぜならば、私もこのナイスフレーズが大好きなのでよく使うのだ。

しかしながら、言語文化とは悲しいものである。語自体の強力なインパクトに関わらず、若い人の反応はいまいちである。しかも、このフレーズを多用しすぎると皆に飽きられる。
しかたがないので、たまに「かわいいべいべーじゃーん!」などとアレンジしてみるのだが、これはオリジナルフレーズが浸透しきった後でなければ意味が通じない。けれども、私は自分さえ楽しければそれで良いという方針なので、初対面の人間の前でも「かわいいべいべー!はい!はい!」などと発言し、相手を困惑させたりする。
このナイスフレーズを本中華語に翻訳すると「可愛的宝宝!配牌!」であるのだが、これでは面前ツモとかドラということになってしまい、なんとなく役満ぽくて点数が高そうであるが、中尾ミエの微塵もなく、もはや元ネタがなんであるかさえわからない。

文化が異なるとジョークのネタも異なるということについて論を展開したかったのだが、考えてみれば中尾ミエは地球規模であるはずがないので、どうも例が悪かった。しかたがないので話題を変える。

私は中華人民共和国、略して本中華というところにいるのであるが、本中華人民の皆さんは英語や日本語がわからない人が多い。つまるところ、私自身が本中華語を覚えなくてはならないわけなのだが、なにしろまだ3ヶ月目なので、ちっともわからない。けれども、仕事場では通訳をしてくれる人がいるので助かっている。

さて、チン君というプログラマがいる。彼も多少日本語がわかるのだが、勉強を始めてまだ三年目とのことなので知らない単語が多いようである。

このチン君を通訳さんがからかうのだ。
「チン君、チンという名前を日本人が聞くとほくそ笑むんだよ」と通訳さん。
「はぁ、なんでですか?」とチン君。
「つまり、日本語では男がチンで、女がマンなんだ」
をいをい、チン君をからかうなよと私。
「うぅん?わかりません?どういう意味ですか?」というのがチン君の反応なのだが、言葉がわからないというのは、なんとも不幸なことよと思う所存である。

通訳さんの解説だと、日本人はチンと聞いて笑うが、本中華人は千葉県と聞くと笑うのだそうだ。
「つまり、本中華語では男がチバケン」
ほんとかよ。
どうも嘘っぽい…おっと、こういう時こそ和了のチャンスであった。

可愛的宝宝!配牌! 役満一発ロン!

2009/01/12

「8時だョ!」の考察

伝説的テレビ番組「8時だョ!」を考察してみる。
一時期は、お化け番組だの。PTAからは低俗番組との烙印を押され一大ムーブメントとなったあの「8時だョ!」だ。生み出されたギャグは数知れず、ドリフを真似したお馬鹿な小学生の数も数知れず。
それほどまでの金字塔的テレビ番組であったのだが、今ではリーダーである長さんが亡くなってしまい過去の伝説となってしまった。歴史を掘り返すという意味ではないのだが、あの「8時だョ!」がどのようにムーブメントとなっていったか。どのような軌跡がムーブメントへと功を奏していったのか。仮定の話を交えて紐解いていこうと思う。

歴史には、「IF」つまりは「もし」はありえないのだが。
//------------------------------------------------------------
//モジュール No.080 Drif
//8時だョ!全員集合!が、
//7時半だョ!全員集合!であった場合の処理
//------------------------------------------------------------
Define Drif_string = "8時だョ!全員集合!"
Drif_string = "7時半だョ!全員集合!"
main()
if (Drif_string != "8時だョ!全員集合!"){;
      Connection con = DriverManager.getConnection(GetTime(19, 30, 5, 5,1980,("TBS番組欄"));
      Title = getTitle(Connection con);
      Printf("それは「" && Title && "」の時間なのだ。");
   }else{
      printf("それは全員集合!の時間なのだ。");
   }
}
//------------------------------------------------------------

昔かじったVBだのCといったものが、すっかり記憶の彼方に飛んでしまっていることが証明されたわけだが、何を言いたいかといえば「8時だョ!全員集合!」が「7時半だョ!全員集合!」であった場合。
それは「巨泉のクイズダービー」の時間なのだ。

本当に「7時半だョ!全員集合!」でなくて良かった。この「8時」という点も一大ムーブメントへ功を奏した要因であったようだ。それでは、逆に「集合」という文字列に注目してみよう。

「8時だョ!全員収監!」だったらどうだろうか?
これはもう大変だ。おそらくオトリ捜査だ。

ジャック「部長、俺たちの計画通りにことが進んでますぜ」
  部長「こちらの思惑通り、奴らが取引に応じてくれればいいんだがな」
ジャック「そいつは大丈夫ですよ」
     「今晩8時キッカリ、連中は罠とも知らずにノコノコやってきますぜ」
  部長「最後まで、気を抜くんじゃあないぞ。ジャック」
ジャック「任せてください!奴らが8時にやってきたら全員収監だ!」

ジャックの努力も空しく、連中に罠だと気づかれてしまう。
なぜなら、取引の時間として8時は早すぎるからだ。もっと深夜にしなさい。
本当に「8時だョ!全員収監!」でなくて良かった。この「集合」という点も一大ムーブメントへ功を奏した要因であったようだ。続けて、別の文字列に変換してみよう。

「8時だョ!全員召集!」だったらどうだろうか?
これはもう大変だ。おそらく赤紙だ。

母さん「よしお、ついにおまえのとこにも赤紙が来ちまったんだね」
よしお「母さん、つらい顔はしないでくれよ」
    「甲種合格だ。国の役に立てると思えば本望だよ」
母さん「何のためにおまえを大学に入れたと思ってるんだい」
    「お国の為だなんて、母さんの前で言わなくていいんだよ」
よしお「今や学徒出陣だ。役場の兵事係りによると、8時には全員召集だ」
    「堪えてくれよ母さん。」

よしおは固い決意を抱き、静岡の浜松にある海軍訓練場で、ゼロ戦の乗り方を教わった。で、教わっているうちに終戦になった。
ゼロ戦の乗り方を教わっただけ儲かった。俺はとってもラッキーだったとは、私の叔父さんの話だ。よかったね。よしお。
よしおはよかったが、それでは一大ムーブメントにはならないと思う。
本当に「8時だョ!全員召集!」でなくて良かった。

幾多の考察を経て、我々はようやく数学的解に辿り着くことができた。
「8時だョ!全員集合!」は「8時だョ!全員集合!」であったため、なるべくして一大ムーブメントとなったのである。

2009/01/07

このように世界とはつながらない

アメーバの3記事を消した。
正月なので一時帰国したのだ。

事の顛末は「なんちゅーか、ほんちゅーか」で書いたので参照してほしいのだが、天竺での文章を本中華三昧に移動させたのだ。アメーバでコメントを下さった方々には非常に申し訳ないが、またコメントくださいね、ね、ね。
実のところ、すべての文章ではなく天竺に関連する文章のみを移動させた。今後、本中華三昧にて新しい文章を次々と公開していくつもりではあるが、ほどよきインターバルをおいて天竺日誌で公開した過去の文章をシラーっと新作として公開していこうと計画している。なにしろ毎週、新しい文章を作っていくのは大変なので、再利用しようということだ。専門用語では、りさいくるというそうだ。

さて、突然話を変える。

STOP THE 右クリック宣言!
当ブログでは右クリックを推奨しません!

今年の抱負的なものである。
私のブログは、テキストベースのページを心掛けている。やはり、私のように世界を相手に情報を公開するような人物になると日本の高速インフラだけではなく低速回線をも考える必要があるのだ…とそれっぽいことを言ってみたが、本当は、商用でもない個人サイトで、文章に関係ないような画像だの動画だのをバンバン貼り付けているサイトって、ちょ~うぜえ。ちょ~だせえ。と思ってるだけだったりする。だいたい、文章の理解を促すような画像、映像などはリンクを貼れば良いのだ。インターネットなんだからさ。さて、この話を今年の抱負である「STOP THE 右クリック宣言!」へとつなげる。だいたいインターネットのブラウジングなんてものは規制などない。右クリックをするなとは、どういう了見だと思われることであろうが、私のページには音楽をのせているのだよ。専門用語では、ばっくみゅーじっくというそうだ。このばっくみゅ~じっくについては過去文章で触れてこなかったが、かなり偏った選曲だ。わたしの趣味だ。ほっときなさい。さて、別ウィンドウ、別タブなんてもので、無神経に複数ページを開くと、このばっくみゅぅじっくが、重奏してしまう。音楽は一つの演出と考えているので、これが重奏されたりミュートされるのは嫌なのだ。それ故、リンク指定に神経を使っているのだよ。つまり、私のページでは左でのクリックを使用し、こちらの意図通りの遷移でお楽しみ頂きたいのだ。そもそも基本がテキストベースなのだから、読み込みにストレスを与えるほどの時間がかかるはずはなく、別窓で先に開くなどという手間をかける必要はないのである。

さて、そろそろ本題に入りたい。これだけ長々と書いておきながら本題とは全く関係がなかったのである。今回は「このように世界とはつながらない」という話だ。なにがどのように世界とつながらないかといえば、インターネットという最先端技術についてである。以前「愚にもつかないこと」の回で言及したが、ブログというものは、ラーメンを食べに行きました。わーい。だのといった極めて個人的且つ愚にもつかないどうでもよい情報を世界に向けて発信するアレなわけであるが、今を生きる我々は、インターネットが世界につながるという話が虚構だと承知しているものだ。理屈としては世界につながっているのかもしれないが、発信する情報が日本語であれば日本語を解する人々にしか、その情報はつながらない。私は英語でもブログを発信しているので、英語の人にもつながるはずなのだが、最近、更新が面倒になってきている。困ったものだ。
ただでさえ面倒だというのに、訪中してからというもの一生懸命勉強している中華語でもブログを公開しようと計画しているのだから、たぶん私はバカなんだろう。私の愚にもつかない与太話を発信される世界の人々には甚だ迷惑な話ではあるが、これでもまだ世界につながるというわけではない。なにしろ、スペイン語の人やロシア語の人、はたまたスワヒリ語の人など、世界には私のブログとつながらない人々がいっぱいいると思われるのだ。

さて、ヤフージャパンの悪口を言おうと思う。
以前、孫くん系列の会社で働いていたことがあるので、大きな声では言いたくないのだが、小さな声では聞こえないので、中くらいの声で悪口を言う。日本のネットサービスは、日本国内でのサービスしか想定されていないようだから仕方のない話なのかもしれないが、ヤフージャパンIDは、ヤフージャパンID同士でしかメッセンジャーを使用できない。世界の人とチャットしたければYahoo.comでIDを取得すれば良いのだから問題はないのだけれども、世界に繋がらないメッセンジャーIDというものに価値があるのか疑問だ。ソフトバンクはインターネットがなんなのか理解していないのかもしれない。

このように、ヤフージャパンは世界とはつながらない。

続いて、アメーバの悪口を言おうと思う。
以前、自分のブログをアメーバで公開していたので、大きな声では言いたくないのだが、小さな声では聞こえないので、中くらいの声で悪口を言う。日本のネットサービスは、日本国内でのサービスしか想定されていないようだから仕方のない話なのかもしれないが、アメーバでは、世界からブログを発信できるなどと平気な顔で言うのだから困る。以前言及したように、本中華からは管理ページが機能しないのだ。本中華当局からのIP規制などの問題もあるわけだが、大抵のサイトは回避策を講じることにより対処ができる。しかしながらアメーバでは、記事を投稿するときにポップアップの窓が開き、その中のボタンを押下しなくては記事が投稿/編集できないという見た目が素晴らしく、アクセビリティが極めて低いという素敵な仕様のおかげで、お手上げなのだよ。

このように、アメーバは世界とはつながらない。

日本のネットサービスの多くは日本国内での利用に限るなどと明記されているので、国内での動作チェックしか行われていないのだろうし、日本国内で利用すれば、このように憤慨する必要もないのだろうが、インターネットの出現により急速的にグローバル化が推し進められている諸外国とドメスティックなネットサービスを採用する日本とは別世界の感が否めない。

なんだか今回は、ちっとも面白くない文章になってしまった。私がもし優秀な評論家であれば「だいたいやね、日本のインターネットはアカンのよ」と衝撃的且つ端的な切りだしで読者の心を惹きつけたところであろうが、残念ながら私は竹村でもなければ、あまつさえ健一でもないのである。「アメーバの3記事を消した」などという、このブログをずっと読んでくださっている方にしか通じないドメスティック且つ内々な文章で書き始めてしまったではないか。

どうやら、私のブログはいつまで経っても、
世界とはつながらないようである。