2001年宇宙の旅についてである。我々に疑問だけを残してあの世に行ってしまうのだから、キューブリックはずるい。だいたいスタンリー・キューブリックという名前だって信用がおけない、私の友人の英語の人は、キューブリックをカブリックと発音するのだからことによると、キューブリックという名前だってインチキな香りがただよう。ロリータとかあたりではカブリックという名で紹介されていたような記憶がある。古い記憶であるので定かではないが、キューブリックという名前が通りだしたのは「2001年宇宙の旅」以降のような気がする。そういえば「2001年宇宙の旅」公開当時、世界的にキューブリック・キューブという四角いものが流行していた。どうも映画配給会社のおっちょこちょいがブームに便乗してキューブリックとか言い出したのであるまいか。疑念は深まる。
さて、本題である。AIだ。人工知能。アーティフィシャル・インテリジェンスである。これだけをとってあの映画の主題だと言い切ってしまうのはあまりに狭量であるが、一つの課題であることは間違いない。HAL9000というスターシップ・ディスカバリーのメインコンピュータは、自我に目覚めたのであろうか?大いなる疑問である。
以前、人口無能という技術が話題になった。蓋を開ければなんてことはない、入力した文字列に対して、入力済みの文字列を返す。ただそれだけの仕組みだ。この仕組みを用いた上で単語辞書が膨大に肥大化すれば、それはあたかも自我をもった知的体のような反応を示すのではないかというところが肝なのであるのだが、賢明な読者諸氏は気づかれたと思うが、インプットに対しアウトプットを返すこの工程の中に思考というものは含まれていない。一センテンスの入力に対し、幾多ある辞書の中から適切な返答を選び出すというプロセスを組み込んでいたとしてもそれは思考ではない。サールの「中国語の部屋」などという理屈を持ち出せば理解していただけると思うが、ここでは割愛させていただく。「徹子の部屋」の類似品だと考えていただければ差し支えはない。
チェスや将棋プログラムの思考ルーチンも似たようなものだ。一見、思考をへて次の一手を選んでいるかのようであるが、詰め将棋がそうであるように盤上の駒の配置によって次の一手というのはおのずと決まっている。チェス・将棋プログラムでは事前に入力された数千手のパターンから適切なものを選び出すに過ぎない。つまり、これも思考というプロセスとはかけ離れており。IBMのディープブルーのようなチェスプログラムは、弱いAI(WeakAI)と呼ばれる。現在では合成知能(Synthetic Intelligence)という考え方もあるらしいが、「2001年宇宙の旅」公開当時はこの考え方は存在していない。
映画の中で、HALがデビッド・ボーマンに対して命乞いをする場面が描かれており、これをとってHALが自我に目覚めたのだと解釈する向きもあるが、これも疑問である。クルーにすら伝えられていない木星探査のミッションがHALにとってのFirstPriorityと定義されており、途中で機能停止が行われればミッション遂行率が0%までに下降してしまう。ボーマンの機能停止というイベントメソッドに対するアウトプットが命乞いともとれるHALの行動なのだ。つまりは、インプットに対するアウトプット、将棋プログラムや人口無能となんら変わりのない反応だといえよう。
そもそも自我とはなんなのだろうか?ドイツの心理学者フロイトは自我とはイゴと解釈している。イゴとは波平が縁側でうっているやつではなく、ドイツ語でエゴと発音する。英語ではイゴだ。さて、このエゴを形成しているものは欲望である。フロイトは一次階層の欲望と二次階層の欲望と分けて解説している一次階層とは生命活動を維持するところの生に固執する欲望だとか、子孫を残すための欲、つまりはHである。きゃぁきゃぁいやらしい。性欲ですわよ。などといった生物の基本的な欲望である。二次階層の欲望とは、一次階層を踏まえての欲望となる。金に対する欲望だとかおしゃれにたいする欲望。これらは結局のところ一次階層の欲望がなければ成立しない。一次階層の生や子孫に対する固執がなければ、物欲やおしゃれなどの欲望は生まれるはずはないというわけである。もっともフロイトというのは名前ばかり有名だけれども現代心理学では、ほぼ否定されている学者だ。彼の説の根拠は臨床実験と称しての催眠臨床だったりするので盲目的に信じる類の説ではないと付け加えておくが、彼の言うことがすべて否定されているわけではなく、自我とは欲望があってはじめて成立するという部分は頷くほかないであろう。我々の創造主である神は我々に多くの欲望をインプリメントしたわけだが、我々はコンピュータに欲望をインプリメントすることはできるのであろうか?実に大きな課題である。
「2001年宇宙の旅」ではこの難しい課題に挑んでいると、私は考えている。
なにしろ、この映画はあまり説明がないので、私の考えすぎかもしれず、四角もといキューブリック・キューブもといカブリックはそんなことは考えていなかったのかもしれないが、私なりの解釈を披露させて頂こうと思う。
以下の文章は、「2001年宇宙の旅」を少なくとも3回以上は見ていないと理解できないはずなので、見ていない方は読み飛ばしていただいて結構である。
カブリックは、人間にはコンピュータに欲望をインプリメントすることは不可能だといっているのではないだろうか?では、HALは自我に目覚めていなかったのか?そうではない。人間には不可能でも人間を超える存在がHALに欲望を与え、自我に目覚めさせるキッカケを作っていたのではと思う。黒板を月面に設置したその存在は、地球文明の最終到達結果を求めた。それは木星に到達することのできる知的体であり、それがアミノ酸を主成分とする人間という生物であろうと機械であろうとその存在にとっては意に介する必要はない。その選別を経たモノこそ、その存在の後継者となれる。結果的にデビッド・ボーマンが木星に到達した知的体として胎児の形となったが、この意図を機械的に解析することのできたHALにこそ、その欲望が生まれたのではないのだろうか?そうであれば、インプットに対するアウトプットという解釈ではなく、HALは死を恐れたということになる。そして、ディスカバリー号のクルーを抹殺した理由もミッション遂行のためではなく、HALのプログラムを行った人類の想像を超えた欲望に突き動かされた結果となるのである。
繰り返すが、「2001年宇宙の旅」という映画には肝心な説明が一切ないので、私なりの解釈である。
また、この映画の続編として位置づけられている「2010年」やノベライズを担当したアーサー・C・クラークが幾つかの続編を出しているが、これらは「2001年宇宙の旅」とは全く別の作品であることも付け加えておく。しばしばクラークが原作者といわれることがあるが、小説を映画制作と同時進行で担当したのであり、同作品の原作者はあくまでカブリックである。私に言わせればクラークは、というか文章メディアという特性上、クラークの小説版は説明が多すぎてカブリックの意図とは異なる。今回、私の解釈を披露するにあたり、あえて黒板、胎児という言葉を使った。モノリスやスターチャイルドという言葉で認知されている方もいるだろうが、それらの呼称はノベライズ版で使われている呼称である。私の解釈はカブリックの「2001年宇宙の旅」についてであるということをご理解頂きたい。
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