一握の砂である。
明治期の庶民の貧しさや苦悩を描いていると教わったものだが、果たしてそうだろうか?
冷静に考えてみてほしい、詩歌を嗜むという行為は余裕のある人間がやるものだ。呑気に短歌などというサブカルチャーに傾倒していた啄木が真面目に働いていたとは思えないのである。短歌などという道楽に興じている暇があったら働いたほうがいいぞと、アドバイスをしてやりたいところだが、残念ながら故人だ。遅かった。
それに引き換え同年代の島崎藤村などは色っぽい句を残している。
前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり
どうだい。
比喩表現を巧みに操りつつ初々しさと色っぽさをストレートなまでに表現した良い句じゃないかね。啄木の愚痴とは次元が違う。啄木の愚痴には比喩表現がないもの。だいたいだね「はたらけど」というのは何なのだ。そのままじゃないか。たとえば「エントロピーの増大」と言い換えるとかだね。もう少し捻ってみる方法を模索してみてはどうかと、アドバイスをしてやりたいところだが、残念ながら既に昇天されているらしい。遅かった。
なんてこったい。
犬と一緒にアクビをしたからどうだというのだ。そんなことを偉そうに書いているのだ。まったく呑気な男だ。ろくな死に方しないぞ。というか、もう死んでいる。
またでた、愚痴だ。
新しいインクの香りが空腹に沁みるんだそうだ。何度もいうが、道楽である短歌で命を削ってどうする。インクを買う金があったら、パンを買いなさい。そして労働に勤しむのだよ。空腹でインクを買っても仕方ないじゃないか。収入に対するエンゲル係数の割合を見つめ直してみるのだよとアドバイスをしてやりたいところだが、空腹の末に仏様になってしまったようだ。言わんこっちゃない。遅かった。
聞くところによると。
啄木の貧乏は遊郭通いにあったそうだ。ぜんぜん庶民の貧しさや苦悩ではないではないか。なんのことはないロクデナシなのだ。社会の屑だ。死んでしまえ。というか、既に死んでいた。
ここまで徹底的に駄目だと逆に親近感が沸くから不思議だ。実はいい奴なんじゃないだろうか。
ロクデナシの師匠と呼ばせていただこう。
駄目といえば、夏目漱石なんかもダメダメだ。
帝大だの英国留学だの肩書きはすごいのだが、残念ながら留学先で英語が通じず、うつ病になって日本に帰ってきたという話ではないか、夏目さんの授業受けるよりノバいったほうが100倍マシなようだ。
日本の英語教育が、使い物にならないという話をする予定だったのだが、今回もやはり枕が長すぎた。
820文字、携帯では2パケ弱の無駄だった。




0 件のコメント:
コメントを投稿