いつかリキシャの話をしたと思うのだが、天竺の交通事情はすごい。人口が世界第二位の国ということもあり、どこもかしこも交通渋滞だ。タクシーやリキシャは我先にと車体を押し込み、交差点は人々で溢れかえる。
混沌とした街頭を走り抜けるバスは外から眺めても、ギュウギュウのすし詰め状態だ。天竺人同士が鼻先八寸の距離で身を寄せ合っている。
いま、すし詰めという言葉を使ってみたが、考えてみれば変な表現だ。つまり、寿司というのはあんまりギュウギュウに入っていないような気がする。寿司の折箱の中身はスカスカで生姜だの短冊で割り増ししているように思うのだ。折箱の中にギュウギュウに寿司を詰め込む寿司屋があったら、それはとってもお買い得なような気がするわけで、大変いいことだ。そのような考察を踏まえるとギュウギュウのすし詰め状態という表現のネガティブな使用はしっくりこない。ネガティブな意味でギュウギュウ詰めを表現するのであれば、別の比喩にすべきではないかと思うのだよ。
たとえば、「ギュウギュウの吉牛状態だ」
どうだろう?しっくりいくのではなかろうか?吉野家の牛丼は、これはもう誰がなんと言おうとギュウギュウだ。寿司とは異なり、吉野家の牛丼がギュウギュウに詰まっていても、それはちっともお買い得感は醸し出されず、むしろ当たり前だ。比喩表現の意味的な見地からいっても、「ギュウギュウのすし詰め状態」という表現は用法的に誤りと思われるので、今後は「ギュウギュウの吉牛状態」という表現の使用を日本文学界に提言しようと思う。
しかしながら、提言は慎重でなければならぬ。なぜならば、この提言では松屋の立場がないからだ。ことによると、なか卯の立場もない。ランプ亭の立場はどうなる。秋葉原の牛丼専門サンボの立場はどうなるというのだ。
サンボなどは、アキバがまだアニメオタクに毒されていない純然たる電気街だった頃からある老舗なのだ。サンボを無視するわけにはいかんだろう。やはりここは「ギュウギュウのサンボ状態だ」で手を打つか。しかし、サンボは如何せん知名度が低い。我々が486時代にDOSV機のパーツを買いにアキバにいっていた頃は、そこそこ有名だったのだが、いまのアニオタはサンボに行くのだろうか?と自問してみるも、よく考えてみれば、アニオタの街になってしまったアキバには、私自身が近づかなくなってしまったので、どうでもいい話であった。サンボなんか無視無視。
閑話休題。
話を戻そう、ことほど左様にギュウギュウの吉牛状態の天竺バスであるため、私はまだ天竺バスを利用したことがない。なぜならば、天竺人でも天竺バスにのると財布がなくなったりするとのことで、外国人にとって天竺バスは大変危険なのだ。
さて、「大変危険なのだ」といったところでようやく本題に入ろうと思うのだが、本題に入る前の枕で今回も無駄にインターネットのトラフィックを消費してしまった。携帯だったら、1000バイトで1パケだ、枕の終了箇所である「大変危険なのだ」というところまでで1033文字ある。全角2バイト文字なので2066バイトの消費だ。2パケだ。
申し訳ない。
天竺的交通事情の本題は、また別の機会に話すとしよう。




0 件のコメント:
コメントを投稿